仙台市市民文化事業団のウェブサイト「まちりょく」にコラム?を書かせていただきました。
https://mag.ssbj.jp/review/11759/
「人生において大切なモノ」を紹介するコーナーで、今回は「北欧プロダクトを」というご要望だったので、ベタですがアラビア社のテーブルウェア「テーマ」を選んで書き始めたのですが、終盤は「なぜ僕は今ファッションデザインをやっているのか?」という自他からの問いへの答えになってしまいました。自分としては考えが整理できてありがたかったですが。
自立するジャケット
関節と衣服、自然と人為

前回書いたように「関節への愛」をテーマに服のデザインを考えているのだが、いくら好きだからと言ってその形をそのままなぞったのでは芸がないというか、さりげなくない。舞台衣装とかならいいが、kiyozaneの服はreally real clothingなのだ。そこで着目したのが生地の「シワ」。曲げた状態の関節に合わせて服を作り、それを着て関節をまっすぐにした時に生じる「シワ」で関節の存在を強調する、というアイデアを思いついた。写真はシーチング生地での試作だが、本番はこれをもっとゴワゴワの厚い生地で作る。
「自然は美しい」とは誰もが思うだろうが、人間の感性には人為的なかたちにも理性の発現としての「美」を感じる回路があるというのが僕の持論で、自然物である人体(ここでは関節)はそのままでも美しいのだが、これにまとわせる衣服という人工物だって、というかむしろ人工物だからこその、理性で裏打ちされた「美」でありうる――そういう挑戦。
エゴン・シーレの“関節”
身にまとうもののデザインを考えることは同時に人の身体について考えることでもあるのだが、最近改めてそう意識してみて、僕が服をデザインするときにはほとんどいつも、頭の片隅にエゴン・シーレがいることに気づいた。シーレを初めて意識したのは僕が学生だった1986年ごろ、たしか新宿の小田急美術館で開かれた展覧会(クリムトとセットだったかも)でだったと思う。いっぱしの創作者気取りを始めたばかりの僕は、彼の描く人物画から、人体をかたちづくる要素としての筋肉と関節、特に後者への強い執着を読み取った。彼の芸術はエロス(性愛)の文脈で語られることが多いが、そんな湿っぽいことは抜きに、純粋に造形の嗜好という意味で、19歳?の僕は共感し大いに感化された。シーレから受け継いだ(と勝手に思っている)この「関節への愛」を数十年の眠りから解凍し、自分のデザインに生かす時が来た。…という訳で、10月の展示会に向けて今、“関節”をテーマの一つに据えて制作を進めているのであった。(つづく)
ジェンダーレスという普通。Genderlessness is the norm.
いつのころからか常識として押しつけられてきた「男らしさ」「女らしさ」という価値観への素朴な疑いから始まって、だからといって無理に異なる性に近づこうとするのでもなく、単に「どちらでもない」というのもいいんじゃないか(実はそっちの方が自然なんじゃないか)という、やや脱力気味の、しかしその裏で核心に切り込もうという野心を秘めつつ。
Genderlessness is the norm. -Term “genderless” doesn’t mean any obtrusive transvestitism, but simply a “free -from-sexual-prejudice” -ness. Maybe it’s fundamentally natural, or at least, potential to be a norm of the coming days.
kiyozane; renewed name of “umedahiroki clothes”

umedahiroki clothes はブランド名を kiyozane に変えました。単にこれまでのは長過ぎると思ったので。キヨザネとは僕の曽祖父の名前です。会ったことないけど。
“umedahiroki clothes” changed its brand name to “kiyozane” just because I thought the former one was too long.
The new one is after the name of my great-grandfather I have never met.